<キミハ夢ヲ語ル><ワレハソレヲ実現セム>

見る人 ジャコメッティと矢内原

見る人 ジャコメッティと矢内原

夏前に神奈川近美のジャコメッティの展覧会を見に行ってから、読み返したいな、と思っていた本。やっと読むことができました。
「見えるものを見えるとおりに描く」ことを希求した作家・ジャコメッティと、彼のモデルとして真正面からその希求と対峙した哲学者・矢内原伊作、そして二人を結びつけるきっかけを作ったと言ってもいい矢内原の旧制高校時代からの親友である宇佐見英治。この本「見る人」は、その宇佐見さんのジャコメッティ評や矢内原への思い、そして矢内原との対談等、短文を中心に収載した本です。読みやすい本ですが、改めて読んでも何度か鳥肌が立ちました。この本をはじめて読んだ十代の頃の衝撃をまざまざと思い出します。出口を失った熱烈な交歓の往復書簡とも言えるだろう矢内原自身「ジャコメッティ」も良いですが、深く傾倒する作家と真摯に対峙する30年来の親友の姿を、すぐそばで「見つづけた(=傍観した)」宇佐見さんの「視点」も感じられるこの本のほうが、個人的には衝撃度が高いです……。才能を「傍観する」ということがどんなに恐ろしく、魅惑的な行為なのか、改めて考えさせられました。
変に私がいろいろ書くよりも、とにかく読め! 読まなきゃ死ぬほど損! という感じなので、なかば自分へのメモとしてひたすら引用を重ねたいと思います。長くてすみません。
ジャコメッティの薄明」pp50-51

奇妙なことだが、矢内原伊作が、ジャコメッティのモデルをつとめて帰国するごとに、私は彼の風貌がだんだん写真でみるジャコメッティの容貌に似てくるのを感じた。(中略)
私はジャコメッティにそのことを話した。彫刻家はいった。「きみもそう思うかね。私も矢内原と私は似てきたと思う。しかしそれは不思議ではなく当然ではなかろうか。毎日、見たり見られたりしているのだから。」

「対談 ジャコメッティについて」p145

矢内原「見たら戦争はできないし、愛することもできないと思うね。だから、そこにジャコメッティの苦悩があったのでしょうね。彼は見る人間だから。果たして見るということで、対象を愛することができるのかどうか。見ているときの対象は、愛の対象にはならないのではないだろうか。」

矢内原伊作の死とジャコメッティ」pp158-159

口をあけたまま亡骸となってしまった矢内原君のその頭部を見つめているうち、私は一瞬、ジャコメッティの作品に同じように口を大きくあけた頭部のブロンズ彫刻の作品があることをさまざま思い起した。(中略)
死体になってもなお彼はジャコメッティの作品のなかにいる、或いは作品の中で彼は死んで行ったのだ。彼は前後二百日を越えるほどモデルをしつづけた。私はジャコメッティと彼との長い深い友情、自由と未踏の星座を見出すために二人が交互に手をとり献身しあったことを思い、襟を正すような思いで、戦慄を感じた。

「未知なる友」pp162-163

私が彼(矢内原)に対して持った感情は、羨望と憐憫、妬心と畏敬のまじった複雑な感情、しかし世間という名の因襲と惰性、また独善と狂気――あらゆる陋劣下賤――に対して断乎戦う暗黙の盟約、いやそんな理窟をこえた何か運命的な、心の深部における愛というべきものであった。(中略)
私は彼に会うたびにつねに私の予期せぬもの、私にとっては未知の彼の一面を発見しておのが認識の粗雑さに気づかされるのであった。(中略)彼の存在はとりとめがなく、とらえどころがなかった。彼は多分彼自身も困るほど彼からはみ出ていた。いま眼前にいる彼は私が私にはついぞ見知らぬ彼であり――、また彼を熟知していると思っていただけに――、その彼がはなはだ新鮮に感じられるのだった。

引用するとどうしても作為的なってしまうんですが、「ジャコメッティの薄明」「未知なる友」、そして矢内原・宇佐見の対談などは本当に読んでいて口から魂が出そうになります。極限の関係性は言葉に換言できるものではないですね。応酬の際の独特の空気感がある対談がすごい良いのですが、ここは引用するとなんだかへんてこりんだったので皆さん読んでください。

そして、神奈川近美を見逃したみなさんも「アルベルト・ジャコメッティ 矢内原伊作とともに」展が12月まで千葉の川村記念美術館でやってますよ。この機会にぜひ?