面白かった

東浩紀ライトノベルブームと『ファウスト』の行方
http://it.nikkei.co.jp/trend/column/opinion.aspx?i=20051024gc000gc&cp=1

僕たちにいま必要なのは、よくできたライトノベルやよくできたミステリではなく、まんが・アニメ的リアリズムを用いてしか描けない現実を極限まで追求し、その反照として僕たち自身の歪さに切り込んでくる、そのような過剰さに満ちた作品だ。(中略)僕たちがなぜキャラクターに感情移入するのか、その欲望の異形さを照らし出してくれる作品。

面白かったです。

これ自体にではなく、つれづれとだらだらといくつか。

「キャラクター」というものは自分も幼い頃から湯水のように浴び続け、ほとんど意識しないままに慣れ親しんできたのですが、けれど改めて「キャラクター」とか「キャラ立て」って、一体なんなんだ……? と真面目に疑問に思ったのは大学時代、オタク系書籍関係のバイトをしているときでした。バイトをしていた4年間、ライトノベルのたぐいをかなり読むようになっていたのですが、つねに思っていたことは「主人公がなんかどうも気持ち悪い」ということでした。ライトノベルの主人公は内面が描かれれば描かれるほど*1、それはどうしてもイメージする「キャラクター」の像から離れていく。特に周りが「キャラ立ち」していると、浮かび上がる人としての主人公と周りの登場人物のズレがどうしようもなく際立ってきて…気持ちわるい。逆に、ハーレム小説や逆ハーレム小説のように主人公がいまいち何を考えているのかわからない小説もまた、身の置き場がなく巨大な虚を見ているようで気持ちがわるいのです(感情移入はできないほうです)。確かにそこには何らかの大きな乖離と捩れが存在している…ように思える。そして、その乖離と捩れが主人公のかたちをとって現れているように思えました。……気持ちがわるい、という言葉はあまり適してないのだろうし、なにが「キャラクター的」と思うのかという"感覚"もまた個人的な経験則でしかないのですが*2、ええと、何が言いたいのかというと、ライトノベルっていうモノがものすごい異形のものである、という感覚は個人的にものすごく強くあるなあ、と改めてぼんやりと思ったということです…。
うーん、もちろん、ライトノベルもキャラクターもすきですが、自分のライトノベルが好き、という感覚の中には、自分がいないんですよね。

更に個人的な話

先日大学の(オタクではない)友人たちと三人で遊んでいたときに、一人が人間関係で深刻に悩んでいる旨の話になりまして、もう一人が「人間関係で眠れないほど悩むなんて面倒くさいし、ものすごくばかばかしいと思う。できれば極力避けたい」というようなことを言い出しました。その後、悩んでいる友人と二人で話をしつつ、「悩みたくない」と言った友人について「あの子を言ったことを全部理解することはできない」と友人がぽつりとこぼしていたことが自分には妙に印象的でした。私は「(毛嫌いする気持ちも)わかる気がする」と答えたのですが、それは簡単に言ってしまえば、私が「オタク的な対象への接し方・人間関係の作り方」に理解と共感があるからで、けれど、いわゆるオタクではない「悩みたくない」友人(UKバンドの追っかけをしていて世界を飛び回ってますが)(それはつまりオタクな気もするな…)の感覚は確かに"オタク的"で、私はぼんやりと…短絡的に、どこか自分を遠くに置く……キャラクターなり手に届かない存在なり何なりを媒介させて、自分と接しさせない感覚…は、みんなにふつうに広がりつつある感覚なのかな、と思ったりしました。

*1:あと地の文が多かったり情景描写が多かったりしても主人公の「キャラ」は立たない気がする

*2:そもそもライトノベルってジャンルとして考えてもいいものなのか