積読消化メモ

さすがに三連休は楽ですね。いい加減積読で床が抜けそうなので手をつけたいと思いました。

戦時下日本のドイツ人たち (集英社新書)

タイトル通りの本。何で買ったのかな……(いや自分好きそうなんですけど)。「へー」というのとちょっといい話で目頭が熱くなるのの繰り返しでしたが、うーん。新書は大好きなんですが、いつも食い足りない感が残るのはなぜなんだろう。

逝きし世の面影

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

というわけで時代を遡ってみました。幕末から明治にかけての外国人による「日本」を記した文献を渉猟し、日本が失ってきたものとは何かを問う一冊。
こっちのが好みでした。ちょっぴり「えー?」っていうところもありつつも、作者が野心的に文中でわいわい主張してる本のほうが好みだったりします。中身は昔の日本は「豊か」とは言い切れないにしろ、みんな幸せそうだったんだよ、という本ですが、手を替え品を替え切り口を変えて読んでも読んでも読んでも終わらないので、途中で「もーいーよー」という気分にもなりました(読者はわがままですね)(どこを読んでも「へー」と思うことはありましたよ!)(あとなんでか何度も泣きそうになった)(いつでもお礼や挨拶は欠かさずにしようと思いました)(小二病感想)
でもこの本から浮かび上がるかつての日本の姿はあまりにも今の日本と違うので、今の私からするとそれこそファンタジーのように思えました。
本の内容とは全然関係ないのですが、

若者たちが、いや若者どころかいい大人たちが、小さな子供たちに交って、凧をあげたり独楽を廻したり羽根をついたりするのは彼ら(外国人観察者)にはまことに異様な光景に映った。(中略)「日本人の(中略)間では、子供特有の娯楽と大人になってからの娯楽の間に、境界線を引くのは必ずしも容易ではない」(グリフィス)

そして日本人は「ナイーブなそして子供らしい性質」(ケーベル)だったという。
つまり……、これを読んで何を思ったかというと……、
――オタクって国民性だったんだね!(そんなひとまとめ)

血と薔薇コレクション1

血と薔薇コレクション 1 (河出文庫)

血と薔薇コレクション 1 (河出文庫)

1968年に澁澤龍彦が責任編集した幻の雑誌の文庫化。一時期ものすごく読みたかった本だったので文庫化されて驚きました。本当に今観てもすごい面子です。でもいろんな感慨がだいぶなくなっていたので、さらっと読んでしまったのですが、さらっと読んだ分には塚本邦雄植草甚一の「斜めになった狭い道を歩いていくと」が面白かったかな……。植草甚一は「捜しているホモ・セクシャルシーンがなかなか出てこない」的な本の読み方になんだかデジャヴュが…(すみませんすみません)(なんでもないなんでもない)
でもこれが1968年なんだもんな……。

最後に、本誌『血と薔薇』は、コンプレックスに悩む読者のためにはコンプレックスの解消を、またコンプレックスのあまりに少ない読者のためにはコンプレックスの新たな贈与を、微力をもって心がけんとするものであることを付与する。

これなどすごく印象深い言葉です。

広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由

広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由―フェルミのパラドックス

広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由―フェルミのパラドックス

途中まで読んでだいぶ放置してたんですが、すごいおもしろかったーー!
「エイリアンがいる証拠が見つかってもよさそうなものなのに、いるようには見えないという矛盾」=フェルミパラドックスについての50の解を書いた本ですが、解は「1.実は来ている」「2.存在するがまだ連絡がない」「3.存在しない」という三つに分けられた三部構成。SF小説が提示した説とかも扱っているので、かなり読みやすく、SF的好奇心(バカSF的な)も満足するお得な本でした。しかも、どの説もすべて懇切丁寧に反論・検討されているので、理系などなどに死ぬほど弱くても理解できましたです。もはや陰謀説みたいなものも多くて地球も高度な地球外文明の残しておいた自然公園の中にあるとか、われわれは高度な文明が作ったプラネタリウムを観させられ、ホントの宇宙の姿を知らないでいるとか、やってくる地球外文明はバーサーカーだから出会った文明はみんな皆殺しされて滅んでるんだよ(だから地球にはまだきてない)とか、それが全部説明・反論されているのでなんかすごく楽しかったで……。後半になってくるにつれ(「3.存在しない」の部分はどうしてもこの地球を振り返ることになるので)地層学や文化人類学やら言語学やら現象学やらの引用も出てきて「?」というところもありましたが、それはさておき面白かった。
面白いSFがいっぱい読みたくなりました。