NO.6 4巻

No.6〔ナンバーシックス〕 #4 (YA!ENTERTAINMENT)

No.6〔ナンバーシックス〕 #4 (YA!ENTERTAINMENT)

嵐の前の静けさ的な3巻のあとの、とうとう矯正施設に潜入しますよ編。
うん、大丈夫だ。うん、面白い、面白い。……という、自己確認を繰り返しながらの微妙な身の置き場で本を読んでしまいましたが……、これまでちゃんと面白かったからこそ(そして好きだからこそ)、逆にこの先の展開に不安を覚えてしまうんでしょうね(最近少しアレだだったですし…)。面白くおわってくれー! 物語というのはタイトロープといいますか、ものすごく薄いところを通す、危うい感覚の上に成立しているものだと常々思って入るのですが、とくにあさのあつこの小説はつねにその「危うさ」を強く覚えます。なんでだろう。
紫苑(この名前にもやっと慣れてきました)はなんかちゃんと成長してるなあ。「自分が辛いから、ただそれゆえに、誰かを傷つけたくない」という気持ちは、確かに開き直りなのだけれど、なんかすごくいいですね。「開き直る偽善者」(言葉悪いですが)というのは萌えです(萌えちゃったか) 一方ネズミが弱くなっちゃっているのもいいなあ。「清掃活動」の描写もすごい。
「敵」の姿もだんだんと見えてきました。紫苑なんかを見ると、今より更にもう一段伏線が敷かれてそうなので、たのしみ。
しかし、「敵」の存在というのは物語の成立における「こりゃ危ない綱渡り…!」という不安要素でもあるなあ、と、色々考えさせられました。SFとかファンタジーとか「敵」の姿をすっかり隠してしまうということはしばしば見かけますし、姿の見えないずぶずぶとした巨大な闇に直面している感覚というのは非常に魅力的で私も好きなのですが……種明かしが難しいところですよね……。読者というものはゲンキンなもので、綺麗にすべてを見せられても蛍光灯で照らされたお化け屋敷のように味気ないものになってしまうし、多くを隠されたままでも消化不良になるし……非常に高度なバランス感覚が要求される気がします。ふと、ここまで思って、長野まゆみなんかも思い出してみたのですが、このひとの小説は敵や、危機や、崩壊を、隠したままでも話を成立させてしまう、稀有な作家さんだなあと思ったりいました。多分敵そのものよりも他の要素の重きが置かれているからでしょうか。(自分的な好みとしては、物語的には副次的なものであれムキになって考えてしまうので、拍子抜けなものでもなんでもきっちり描かれたほうがすっきりするのですけど)
しかし結構表紙が怖いです。
それにしても。
この本の間に「大人も知らない「本当の友だち」のつくり方」という本のチラシが挟まれていて、なんだかものすごく気になってしまったのですが、どうなんだ。
大人も知らない「本当の友だち」のつくり方 (こころライブラリー)

大人も知らない「本当の友だち」のつくり方 (こころライブラリー)