シムーンやばいね

春の新番組アニメ「シムーン」かなりあつい、というかやばいというお話です。
そう、確かに思春期……思春期のころ、自分は、男や女や、いや、それ以上に社会的な…"誰かであること"、"何かであること"、すら憎んでいた。出来ることならば、"誰でもない"、"なんでもない"ものでいたかった。そして、そのなんでもない存在のまま、そのまま誰かに理解してほしかった。………もはや今となっては懐旧の念をもってぼんやり思い出すだけの感情ではありますが、私は確かにそう思っていました。
――あのころ、何よりも強かったのは「自分が何かに固定されていく」ことへの強い忌避。その気持ちを、シムーン二話を観ていて思いっきり引っ張り出されました。二話の泉のシーン、あれはやばい。話の中で"男でも女でもない存在"のシヴュラは十七の歳に「泉」に行って性を選択しなければならないわけですが、あんなの選べるわけがない。結果「男」になり、号泣したシヴュラも、あれは決して男になったから泣いたわけではなく、"選んでしまった"、"決まってしまった"、ことに対して泣いたのだろうと、観ているこちらまでつられて泣きそうに…(入り込みすぎ)。ものすごく鬱はいりました。ああー、こ、これはー、これはー。このアニメはある種の旧世代の女子オタクの人は観ちゃいけないものかもしれない。観ながら脳裏で二十四年組とか(特に思い出したのは萩尾望都の「マージナル」だったんですけれども)がぐるぐるしていたのですが、その辺の漫画等々に思い入れのある人(あと所謂古いJUNEっこ)は観たほうがいいような観ないほうがいいような……。これは心底、百合アニメの皮を被った別の何かですね……。一緒に観ていたid:kotokoさんも鬱入ってたんで間違いない。危険危険。恐ろしい。
アニメを観終わって「マージナル」が読みたくなかったんですけど、どうも実家に置いてきちゃったようなのでとりあえず大島弓子の「つるばらつるばら」を手に取ったんですが、これはこれでくるなーー…。

ぼく達はそこにねころんで なにもしゃべらず空をみていた
なにもしゃべらない なにも考えない
すると
にわかに 天と地が逆転し
ぼくは天を見おろすのだった
そして その瞬間に ぼくはたよ子でも継雄でもなくなっているのだった
それはなんといったらいいのかわからない
快感としかいいようがないとぼくは思った

この「天地逆転の幸福感」は「胸の痛い幸福感」だと主人公の継雄は言う。それは「選ばない」「踏み出さない」「見つからない」ことで得られる幸福だからだ。
このアニメの登場人物が何を「選び」また「選ばない」のか、できることならちゃんと見守っていきたいと思います。

つるばらつるばら (白泉社文庫)

つるばらつるばら (白泉社文庫)

マージナル (1) (小学館文庫)

マージナル (1) (小学館文庫)